第3回 森島啓⼦名誉教授

遺伝学の先達

「遺伝学の先達」第3回は森島啓⼦先⽣です(もりしま・ひろこ。⼾籍名は沖野啓⼦)。森島先⽣は⼤学卒業直後から定年までの40年間を国⽴遺伝学研究所(遺伝研)で過ごし、イネの遺伝学に研究者⼈⽣を捧げました。76才で亡くなられた後、ご遺族からの寄付による「森島奨学寄附⾦」で、優秀な学⽣に対する「森島奨励賞」が創設されました。森島先⽣の著作や資料にもとづいて、その⾜跡をたどります。
 本記事作成には倉⽥のり先⽣(植物遺伝研究室教授)に全⾯的にご協⼒いただきました。

森島先⽣の著書とエッセイ集
森島先⽣の著書とエッセイ集

森島先⽣の歩み

森島先⽣は1958年に東京⼤学農学部を卒業しました。まだ⼥性研究者や⼥⼦学⽣の少なかった時代、農学部では同年代の太⽥朋⼦先⽣注1と、演劇部では郷通⼦先⽣注2と⼀緒だったそうです。卒業後すぐに遺伝研の研究員として着任し、5年ほどで東京⼤学から農学博⼠号を授与されました。後にアメリカで学位取得した太⽥先⽣とともに70年代後半に研究室⻑(現在の准教授相当)となって研究室を運営し、80年代にはそれぞれ遺伝研で⼀⼈⽬と⼆⼈⽬の⼥性教授になりました。 

アマゾン川で野⽣イネを採集する森島先⽣(⼤原雅先⽣撮影)
アマゾン川で野⽣イネを採集する森島先⽣(⼤原雅先⽣撮影)

森島先⽣が40年間⼀貫して取り組んだのは、イネの遺伝学です。森島先⽣の就職当時、遺伝研ではちょうどロックフェラー財団の⽀援で2つのプロジェクトが動き始めたばかりでした。そのうちの⼀つ「栽培稲の起源に関する研究」の研究員として森島先⽣は採⽤されました。現在私たちが⾷⽤としている栽培イネは、さまざまな特徴をもつ野⽣イネから⾷⽤に適したものが⼈類の歴史とともに選抜され、その後も交配等を通じて作り出されてきたものです。多様な野⽣イネの遺伝的特徴を調べ上げ、どの部分が栽培イネに受け継がれたかを突き⽌めることは、実⽤⾯だけでなく進化という観点からも興味深い研究です。

地下茎を茂らせたタイの多年⽣型野⽣イネ
地下茎を茂らせたタイの
多年⽣型野⽣イネ

森島先⽣は岡彦⼀先⽣の下で世界各地の野⽣イネの採集や解析を始め、後にイネのコレクションを岡先⽣から引き継ぎます。イネといえば頭を垂れた稲穂が思い浮かびますが、野⽣イネは実にさまざまな姿をしています。⼦孫を残すために、稲穂から実がはずれて落ちるものが多いですが、ほとんど実をつけずに地下茎を張りめぐらすことで増えるものもあります(写真左)。地中にまき散らされた実も、翌年に芽を出すものもあれば、10年後に芽を出すものもあります。そのような多様性がどのように制御されているのか、また、進化の過程でどのように獲得されて選ばれてきたのかといったことが、森島先⽣にとって⼤きな研究上の問いでした。それらの⼤きな問いは、部分的に解明されながらさらに深められ、今⽇のイネ遺伝学の底流にも続いています。近年では次世代DNAシーケンシング技術によって⾼速・⼤量のゲノム解読が可能となり、⻑年かけて集められた野⽣イネのゲノムも続々と解析されているところです。さらにネットワーク解析や⼤規模データ解析の⼿法を組み合わせることによって、野⽣イネの多様性と環境適応についての知⾒や、新しい品種開発につながる研究成果が期待されます。

次世代のために

森島先⽣の活動範囲は研究だけにとどまらず、⼥性研究者の労働環境改善や旧姓使⽤にも取り組みました。⼦育て期には通勤時間が夫婦平等になる場所に住み、夫婦で育児・家事を分担しながら互いのキャリアを⼤切にしました。男⼥ともに⾃然体で活躍できる社会を、森島先⽣は望んでいたのです。

アメリカでキャリアウーマンとして成功するための三つの条件というのは次のようなことだそうである。
1.⽝のように働き(中略)、2.男のように考え、3.淑⼥のようにふるまう。いろいろな考え⽅があるだろうが、私はこんなスーパーウーマンでなくては成功しないと⾔うのではやはりちょっといやである。⼤体この三つの条件のどれも気に⼊らない。(中略)それぞれが⾃然体で⽣き、そして実⼒相応に認められる社会であって欲しい。
注3

このようにしなやかに、かつ⼒強く歩んだ森島先⽣を⾒て育ったお嬢さんは、⾃分で中古の天体望遠鏡を⼊⼿するほど⾃然観察の好きな⼦供に育ち、やがて研究者の道に進まれたそうです。森島先⽣の逝去後には、「⺟は遺伝研で⻑い間お世話になって幸せな⼈⽣を送ったと思うので、⺟が残したものが研究所で⽣かされれば⺟も喜ぶと思います」と寄付を申し出てくださいました。

退職後に始めたボタニカルアート(クリスマスローズ、ノブドウ)
退職後に始めたボタニカルアート(クリスマスローズ、ノブドウ)


寄付⾦の使途を決めるにあたって、森島先⽣が退職直前まで熱⼼に学⽣指導にあたられたこと、また、現地調査に訪れた国々で経済的な格差に⼼を痛められていたことから、寄付⾦は学⽣⽀援のために役⽴てられることとなりました。具体的には、経済的⽀援が必要な学⽣が無利⼦で借りられる⽀援⾦や、きわめて優秀な学位論⽂に対する「森島奨励賞」の仕組みがつくられました。初めての森島奨励賞は、2014年に神澤秀明さんに授与されました。注4 神澤さんの専⾨分野は分⼦⼈類遺伝学で、卒業後も優れた研究を続けています。
これからも森島先⽣は遺伝研で学ぶ学⽣たちを⾒守り続けます。


脚注
1. 太⽥朋⼦先⽣ 1956年東京⼤学農学部卒業。遺伝研・総研⼤名誉教授。
2. 郷通⼦先⽣ 1962年お茶の⽔⼥⼦⼤学理学部卒業。お茶の⽔⼥⼦⼤学元学⻑。情報・システム研究機構元理事および名古屋⼤学理事。
3. 森島啓⼦「クォータ制に思う」、『学術の動向』1996年11⽉号より。
4. 集団遺伝研究部⾨ 神澤秀明さんが「森島奨励賞」を受賞

(2015年12⽉ リサーチ・アドミニストレーター室 伊東真知⼦)

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