第2回 広瀬進 名誉教授

遺伝学の先達

遺伝子のはたらきは塩基の並び方だけでは決まらない
新しい遺伝学を築いた広瀬 進先生

広瀬進先生は、遺伝学と分子生物学からのアプローチにより、細胞にあるクロマチンの構造の変化による遺伝子の発現の調節機構を明らかにし、 エピジェネティクスという遺伝学の新しい分野を築いた研究者の一人です。遺伝研には、1986年から定年をむかえる2007年まで在籍し、副所長も務めました。 現在は、名誉教授として精力的に研究を続けています。広瀬先生に遺伝研での研究生活を振り返ってもらいました。

ショウジョウバエが赤と白の斑入りの眼になるのはなぜ

ショウジョウバエは、眼の色をつかさどるwhiteという遺伝子を持っています。この遺伝子がはたらくと眼が赤くなり、はたらかないと白くなります。 ところが赤と白の斑入りの眼になるショウジョウバエがいて、これは染色体にあるwhite遺伝子の位置が不活性クロマチンの近くに移動したためだと 米国の遺伝学者マラーが1930年に発見しました。斑入りになるとは、遺伝子がはたらく部分とはたらかない部分があるということです。 これは、いったいどのようなしくみなのかずっと疑問でした。

私は分子生物学が専門で、前任の基礎生物学研究所ではクロマチンの構造と機能を研究していました。 1986年に遺伝研に移って遺伝学の研究を始めようとしたときに、ショウジョウバエの斑入りの眼の謎を解き明かそうと思ったのです。 マラーが実験を行ったころは、まだDNAの2重らせん構造もわかっていませんでしたが、1980年代に遺伝子工学が発展してきて、この現象に関わる遺伝子の実体もわかるようになってきました。 そこで専門の分子生物学と遺伝学の両面からこの謎解きに挑むことにしました。

ショウジョウバエが白眼になるしくみ

DNAは染色体の中ではヒストンというタンパク質と結合しており、クロマチンと呼ばれます。クロマチンが折り畳まれることで、非常に長いDNAがきちんと核の中に納まります。 染色体の中で、クロマチンが凝集するとDNAが不活化し、ゆるむとDNAが活性化します(図1)。染色体はクロマチンの構造を変化させることで、DNAのはたらきを調節しています。

クロマチンの構造が明らかになると、斑入りのショウジョウバエで白眼になるしくみも明らかになりました。ヒストンの特定の場所がメチル化されると、 メチル化したヒストンにHP1というタンパク質が結合し、HP1がさらにヒストンメチル化酵素をつれてきてとなりのヒストンをメチル化します。 こうして次々とヒストンのメチル化とHP1の結合が広がるとクロマチンは凝集し、DNAは不活化します。すると、遺伝子がはたらかなくなって白眼になるのです。 一方、赤眼になるのは、白眼になるのと逆で遺伝子がはたらくということですが、そのしくみはまだわかっていませんでした。

クロマチンの構造

図1:クロマチンの構造
ヒストン8個が集まってビーズ状となり、その周りをDNA(赤い糸)が巻いたものが沢山連なっている。

ついに赤眼になるしくみが明らかに

広瀬名誉教授

クロマチンのDNAがはたらく活性化領域とはたらかない不活化領域の境目をクロマチンの境界といいます。私たちは、そこに着目して研究を進めました。 クロマチンの構造はかなり複雑なうえ、まだ十分な情報もなかったので、研究は簡単には進みませんでした。 あれこれと実験を繰り返す日々が続き、10年たったとき、クロマチンの境界には「FACT」というタンパク質が存在することを見つけました。 このFACTがきっかけで、いろんな謎が一気に解け、しくみが明らかになったのです。

FACTがはたらいてクロマチン構造が変化すると、不活化の目印であるメチル化ヒストンが、活性化の目印が付いたヒストンに置き換わります。 そのヒストンが、砦になってヒストンのメチル化とHP1の結合が広がるのをおさえます。するとその砦の反対側のクロマチンはゆるみ、遺伝子がはたらけるのです(図2)。 そのため、赤と白がまじった斑入りの眼になるわけです。マラーの発見から80年経って、やっと謎が解けました。

このように、遺伝情報をもつ遺伝子の塩基配列が変化せず、クロマチンの構造の変化を仲立ちにして遺伝子のはたらきが変化するメカニズムをエピジェネティクスといいます。 遺伝子のはたらきは、塩基の並びかただけでは決まらなかったのです。そしてこの機構が、発生や分化ばかりでなく、がんの発症にも関与していることが明らかになりました。

FACTが存在する部分を境にクロマチンの活性が変わる。

図2:FACTが存在する部分を境にクロマチンの活性が変わる。 

分子生物学と遺伝学がうまくかみあった

私が遺伝研で研究を始めたころからクロマチンの分子生物学が急速に発展し、その成果を遺伝学の研究に応用してきました。 この研究では、分子生物学と遺伝学がちょうどかみあって、いろんなことがわかりました。遺伝研は、好きな研究をじっくりとやれる環境だったので、新しいこともやりやすかったですね。 ずっと好きに実験できたので、研究の最先端にいることもできました。研究に打ち込む日々でしたが、趣味の山登りもしていました。 今は野山を散歩するくらいですが、自然の中を歩いていると思わぬひらめきもあります。

今、エピジェネティクスは盛んに研究されていて、行動や学習、記憶などでも重要なはたらきをしていることがわかりつつあります。 私は、その中でも記憶に一番興味があります。現象しかわからなかった記憶のしくみが、エピジェネティクスで解き明かされることを期待しています。

遺伝学を志す若手研究者へひと言

自分の研究目標に向かって、納得のいくまで徹底的に考えてください。まわりに左右されず、自分の信ずる道を進むことが大切です。

(広瀬進先生からのメッセージ:You Tube遺伝研チャンネル

(サイエンスライター:佐藤成美)

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