上田 龍 教授(うえだ りゅう)

 無脊椎動物遺伝研究室 上田研究室
1952年生まれ 筑波大学大学院博士課程 生物科学研究科生物学専攻 単位取得退学 三菱化学生命科学研究所 細胞生物学研究室 研究員 2002年より現職。 受賞歴/1993年日本遺伝学会奨励賞 趣味/中古写真レンズの愛翫

世界の遺伝学研究を支えるハエライブラリを運営

遺伝学研究所の生物遺伝資源センターで運営されているNIG Fly Stocks(ハエストックセンター)は、世界中の遺伝学研究者の求めに応じて17,000種に及ぶキイロショウジョウバエのRNAi遺伝子機能欠損変異系統を提供している。現在、世界中にキイロショウジョウバエのリソースを提供するストックセンターはここと京都工芸繊維大学で合わせて4千系統、他にはアメリカとオーストリアにしかない。まさに世界のキイロショウジョウバエの遺伝子の機能の研究に欠かせないこのライブラリを立ち上げたのが、上田 龍教授である。

「狙った遺伝子」を「狙った場所」で破壊する手法を開発
どの遺伝子がどのような働きをしているかを調べるには狙った特定遺伝子の機能を破壊して表現型の変化を調べればよい。RNAi(RNA干渉)法とは、細胞内に二本鎖のRNAを注入することで、細胞中の同じ塩基配列を持ったRNAを選択的に破壊するという手法だ。RNAi法を用いることで狙った遺伝子の機能が欠損した変異体を作ることが可能になる。この手法自体は1995年ごろから知られており、ショウジョウバエでも二本鎖RNAを胚に注射器で注入することで変異体を取得できることが確かめられていた。だがこの方法には、手間がかかることと、特定の部位だけを狙って二本鎖RNAを入れ込むことが難しいという課題があった。
重要な働きをする遺伝子の機能を欠損させると個体を死に至らせる可能性もあるため、特定の器官や細胞にのみ二本鎖RNAを注入する必要があるのだ。それでは、発想を転換したらどうだろう。ショウジョウバエ研究では、狙った遺伝子を特定の器官や細胞でのみ発現させるための手法として、特定の部位にのみ酵母転写因子GAL4を配置した個体(GAL4-Driver)と、遺伝子にGAL4転写因子の認識配列(UAS)を組み込んだ個体を交配するGAL4-UAS法が1993年に開発され、広く使われ始めていた。「RNAi法とGAL4-UAS法を組み合わせて、細胞の外から二本鎖RNAを注入するのではなく、特定の細胞内で二本鎖のRNAを作れないか。」というのが上田教授の“誘導型RNAi法”のアイデアだ。
具体的には、ゲノムの一部に特定の遺伝子の逆方向反復配列の遺伝子断片(IR)をUASの制御下に置いた(UAS-IR)を導入したハエを作成し、GAL4-Driverと交配する。交配したハエでは特定の部位の細胞内でのみ挿入したUAS-IRに対応したRNAが転写され、局所的に遺伝子の機能が欠損した状態になる。交配時の温度を調整することで、欠損効果に強弱をつけることも可能だ。「レトロウィルスの研究者から、ウィルスのRNAにはインバーテッドリピートという配列があって、ウィルスが発現するときヘアピン型になって二本鎖を作るという話を聞き、『注入したい二本鎖を反転させて1本鎖にした状態のものを使えば同じことができるのではないか』とひらめきました。」(上田教授)実際に試してみたところ、たしかに狙った部位で狙った遺伝子の機能が欠損した状態のハエを作り出すことに成功した。
実験に成功した時、最初に上田教授が考えたのが「これでハエのライブラリが作れる。」ということだった。ショウジョウバエのすべての遺伝子に対応したRNAi断片を導入したハエを作り、交配がおこらないように隔離して管理しGAL4-Driverと交配することで、ゲノムの配列から推定される全遺伝子の変異体をすべて揃えることが理論上可能となる。「長年ショウジョウバエを使った研究を続けてきて、試料にしてもさまざまな技術にしても国内で開発したものはひとつもなく、ちょっと(日本は)情けないという思いがずっとありました。これで、日本としてショウジョウバエ研究コミュニティーに貢献できると思いました。」
「この研究で私に業績はありません」
上田教授が遺伝子に興味を持ったのは、岩波新書の『卵はどのようにして親になるか』に出会ったことがきっかけだ。その本の著者である林雄二郎氏が教鞭をとっていた東京教育大学に進学し、発生学の研究室に進んだ。「その時の担当教員だった米国帰りの岡田益吉先生や、特別講義にいらっしゃった堀田先生(堀田凱樹・元遺伝学研究所所長)に「これからはショウジョウバエの時代だと力説されました。」(上田教授)とはいえ、当時はショウジョウバエにこだわるつもりはなかったという。しかし、大学院を中退して就職した研究所(三菱化学生命科学研究所)で結局はショウジョウバエの研究に携わることになったというのだから、これはもう運命の出会いだったといってもよいだろう。
ショウジョウバエゲノムのドラフト配列が発表されたのが2000年のこと。誘導型RNAi法の実験に成功したのは、ドラフト配列をもとにすべての遺伝子の機能を同定するための研究がはじまるタイミングだった。個別の遺伝子を解析するための遺伝子機能欠損変異体が全部そろったライブラリがあれば、とても役立つはずだ。そう考えた上田教授は、2001年当時所属していた三菱化学生命科学研究所を説得して3年間のプロジェクト“RNAiハエバンクプロジェクト”をスタートした。翌年、上田教授が遺伝学研究所に移籍したことに伴い、プロジェクトも両所で取り組むことになり、3年経過後は遺伝学研究所でハエストックセンターの事業として継続されている。
驚いたことに、上田教授にはRNAiハエを使った研究業績がない。「論文は放っておいてもだれかが書くと思いました。私の役割はそれよりもライブラリを整備し、研究のリソースを整えることだと考えました。」(上田教授)
ハエストックセンターでは、現在RNAiハエ17,000系統について、1系統あたり試験管2本、合計34,000本の試料がストックされている。温度は18度に管理されており、およそ4週間で世代交代するように調整されている。育てられているハエは、Webを通した注文に応じて世界中の研究機関に発送される。スタッフは20名以上と遺伝学研究所の中では大所帯で、女性スタッフも多く活躍している。
遺伝子機能の研究で“体内カレンダー”の謎を解き明かす
RNAiハエを使って動物の“光周性”について研究しているのが、同研究室の近藤周助教だ。赤道近くに分布している生物は、ほぼ一年中一定の気候の中で生きているが、赤道から離れるほど生存するためには季節による気候の変化に適応し、“体内カレンダー”を身につける進化が必要になる。季節を知るための情報として確実なのが日の長さであり、光周性とは日の長さの変化に対応して生物の性質が変化することをさす。どうやって生物が日の長さを計る方法を身につけているのかということは、遺伝学的にはよくわかっていない。近藤助教は、RNAi法によって日の長さを計れない変異体を探し、遺伝子を特定しようとしている。「キイロショウジョウバエはもともとアフリカ原産なので光周性は示さなかったけれど、世界中に広まった結果、北の方にいる群では冬眠するような進化を遂げたものもあります。日の長さが変わることで生物の遺伝子がどう変わるのかということを明らかにしたい。」(近藤助教)冬眠をつかさどるような遺伝子が明らかになれば、将来、人類が宇宙に旅立つときのコールドスリープ技術にも応用できるかもしれないなど、夢は広がる。
生物の多様性を明らかにする遺伝子の機能の研究へ
「生物学のおもしろさは多様性にあります。」と上田教授は語る。近藤助教が研究する光周性も、体内カレンダーという生物が示す多様性の一例だ。多様な生物の違いを明らかにしていくために、遺伝子の機能の研究も、ゲノム解析という道具を得て、これまで主流だったショウジョウバエやマウスを使った研究から、さまざまな生物を対象としたものに変わっていくと予測する。「この研究室で扱っているのは小さなDNAだけれども、細かいことだけを見るのではなく、広い視野を持てる人が楽しめると思います。生物が好きで、元気な人にチャレンジしてほしい。」(上田教授)
(インタビュー 2012年)
 パンフレットダウンロード(1.28MB)

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