発生工学のすすめ

発生工学のルーツ

生物学と遺伝子工学

日本で発生工学と呼ばれるものが現れたのはおよそ10年ぐらい前からであるが、この分野はそれまでに発展してきた発生生物学や哺乳類の生殖生物学に加えて、新たに急速な発展をみせた遺伝子工学が一緒になって、学際的な研究分野を生み出したものである(図1-1)。

発生工学に関係する学問分野

まず、発生生物学というのは生物の個体発生を研究する学問である。つまり高等動物の場合は卵子と精子が合体してできる受精卵から個体の発生が出発するが、まず細胞分裂によってたくさんの細胞がつくられた後に、こんどは極めてうまく制御された細胞分化と形態形成を経て胚または胚子(embryo)が発生してくる。発育した胚はやがて孵化して自立生活を始める。哺乳動物の場合は母体の子宮内で発育して、胎仔ができて成長してから出産に至る。これらがさらに成長して、雌雄の個体が成熟した後に卵子と精子をつくることによって、次の世代の発生を開始するというサイクルを繰り返すことになる。このなかで、特に受精卵から始まって動物個体が発生してくる過程の機構を解明することを主な内容とするのが、発生生物学である。

また、この発生生物学と密接に関連して重複してもいるが、特に生殖現象を対象として専門化した分野が生殖生物学である。そのなかでも、医学や農学との関連の深い哺乳類生殖生物学は、配偶子の形成と受精、そして胎仔の発育に焦点を当てて研究する学問分野である。発生工学との関連では、哺乳動物を含む脊椎動物を対象とする発生生物学と生殖生物学が特に重要である。

一方、生命現象の分子レベルでの解明を目指す研究は、生化学や分子生物学の大きな進展によって遺伝子の本体であるDNAを思うままに操作できる技術を開発して、遺伝子工学の分野を急速に発展させた。この技術を使えば、細胞核の中に存在して染色体をつくっているDNAを分離して、そのなかから目的とする遺伝子部分を単離して、それに別なDNA部分をつなげたり、これらを大量に複製することにより、遺伝子を実験的に自由自在に操作することが可能になった。特に、いろいろなキット試薬や自動化された研究機器がどんどん使えるようになって、ますます強力な研究技術になっている。たとえば、ヒトの遺伝子すべてのDNA塩基配列を決定しようとするヒューマンゲノムプロジェクトがすでに開始しているのは、この方向への流れを象徴的に示している。

中辻憲夫著「発生工学のすすめ」(羊土社)より引用

発生工学は生物の発生過程にメスを入れる新しい学問!

さて発生工学という言葉は、まだそんなに広くは馴染まれていないと思われる。タンパク質工学や細胞工学と呼ばれる分野が、タンパク質や細胞に対していろいろな操作を加えることによって新しいタンパク質分子や細胞株をつくり出して、それらを利用しようとする研究分野であるのと同様に、生物の個体発生過程にいろいろな実験的操作を加えることによって、その発生過程をこれまでと違った新しいものに変えてしまったり、その結果として新しい生物系統をつくることを主な内容とする学問分野である。ここでいう実験的あるいは人為的操作としては、新しい遺伝形質の導入ということが大きな部分を占めるが、それとともに遺伝子を導入された細胞の移植なども重要な発生工学的手法である。

このような内容を持つ発生工学が基礎研究として行われる場合は、たとえばある遺伝子を導入したときに発生過程がどのような影響を受けるかを解析することによって、その遺伝子が個体発生で果たす機能の解明に役立つことになる。特に、その遺伝子の胚子や胎仔および個体全体における機能を解析するためには不可欠な方法である。一方、医学や農学分野での応用とつながる研究として行われる場合は、ヒトの病気を研究するための疾患モデル動物をつくったり、家畜の画期的な品種改良や家畜による有用物質の生産などへと発展することになる。

中辻憲夫著「発生工学のすすめ」(羊土社)より引用

発生工学の特色

「上から下方向」と「下から上方向」の研究

生物の個体発生過程を解析する研究分野として長い歴史を持つ発生生物学では、発生過程のなかで起きる現象を観察して、その機構を細胞レベルから分子レベルへと分解していこうとする「上から下方向」の研究が行われることが多い。つまり、多細胞現象(胚発生)→細胞→タンパク質→遺伝子という方向に解析を進める研究方法が基本的なやりかたであると思われる。

ところが一方で、分子生物学や遺伝子工学が急速に進展したことから、生物学的機能が全く知られていないか、一部分しか知られていないような遺伝子やタンパク質分子が多数見つかってきている。そこで、これらが生体内や個体発生過程で、どのような役割を果たしているかの研究が極めて重要になっている。

この場合は、これまでに生物機能が知られている類似の遺伝子やタンパク質を検索して新しいものの機能を推測したり、その遺伝子やタンパク質の発現パターンを解析したり、培養細胞で発現させてその効果を調べるなどの「下から上方向」の研究が必要になる。つまり、遺伝子→タンパク質→細胞→多細胞現象(胚発生)の方向での研究が行われることになる。このときに理想的と思われるひとつの研究手法は、ある遺伝子を変えたときに発生過程にどんな効果が現れるかを解析できる発生工学的研究である。最近の遺伝子工学の発展によって、どんどん新しい遺伝子が見つけられるようになったので、新しい遺伝子の発見よりもその生物機能の解析がますます必要になっているのが現状である。

ところで、胚発生の過程は多数の遺伝子が相互に関連し合って表現形質を生み出している。細胞のレベルでみると、多種類で多数の細胞が相互作用を及ぼし合いながら胚組織をつくり上げていく。このとき、胚組織の一部分を失うなどの「事故」が起きても適切に対応して発生過程を正常に近く進行させる「調整能」を持つ場合が多い。しかも胚発生のある時点である遺伝子が発現して働いたとしても、その効果はその発生段階で完結するのではなく、その後に胚発生がある期間進行した後になって初めて、結果の全容が明らかになるという時間軸を含む現象を持つのが発生現象の特質である。これらのことから考えると、胚子や胎仔、個体の発生とは、多くのユニークな側面を持つ極めて複雑で高次な生物現象であるといえる。したがって、ひとつの遺伝子やタンパク質因子が胚発生過程でどのような機能を果たしているのかを解析するためには、関連する他の遺伝子を含む胚全体の発生過程を考慮することが必要となる。

このような高次現象としての個体発生過程を解析するためには、実験の対象として、胚から取り出して分離した組織、細胞や分子だけではなく、発生中の胚や個体全体を実験対象として使用する研究が必要になる。しかも胚や個体のまるごとを研究対象とする場合でも、同時にタンパク質や遺伝子のレベルの現象までを見通すことが可能な研究方法が必要とされるようになってきた。このような目的のために最適なのが発生工学的手法であると考えられる。つまり、(1)各種段階の生きたまるごとの胚に対して実験操作を加える、(2)実験操作を加えた胚の発生を継続させて、後の発生段階の胚または誕生した生物個体について結果を解析する、(3)胚に加える実験操作としては、いろいろな方法による遺伝子導入、各種操作(細胞ラベルや遺伝子導入)を加えられた細胞の移植、組織や器官の移植などが考えられる。このような実験を行う場合に重要な点は、目的とする胚を生かしたままで、しかもその後の発生の進行を許す条件で実験的操作を加えるということである。

中辻憲夫著「発生工学のすすめ」(羊土社)より引用

広範な分野で応用できる発生工学的手法

発生工学は、基礎研究だけでなく応用に発展する可能性を持つことがもうひとつの特色である。つまり、新しい遺伝形質を持つ動物個体がつくられて子孫へ伝われば、新たな生物系統がつくられたことになる。たとえば、家畜などの有用生物の品種改良をこれまでは考えられなかった速度で急速に進めることができる。また既知の遺伝子について、あらかじめデザインした方向への遺伝形質の変更を行うことができるようになってきた。実際、医薬品などの有用タンパク質を家畜の乳腺細胞でつくらせてミルク中に分泌させるトランスジェニック家畜が現実につくられている。

また医学への広範な応用も考えられる。もちろん、ヒト疾患のモデル動物をつくるなどの基礎医学での利用はすでに広く行われている。ヒト胎児への人為的操作は生殖系列細胞を除外するなどの倫理面での熟慮が必要ではあるが、将来的にはヒトの胚子や胎児を対象とする遺伝子治療を、胎児手術や細胞移植などの発生工学的方法で行う可能性が十分考えられる。

中辻憲夫著「発生工学のすすめ」(羊土社)より引用

魚類–実験材料の若手

哺乳動物などの脊椎動物を対象とする発生工学について紹介するが、その理解のためにはこれらの動物の胚発生過程と生殖現象に関する知識が不可欠になるので、ここでその概略を説明しておく。

発生工学的研究に使われる魚類としては、ゼブラフィッシュメダカのように、これまでの長年の研究と改良の結果、実験室内で飼育して産卵させる方法が確立したものが、基礎研究に使われている。また、飼育はそれほど簡単ではないが、水産業などへの応用上の重要性から実験対象として使われているサケマス類などがある。
魚類の受精卵は一般に油脂類を大量に含む卵黄部分を持ち、細胞質部分は胚盤(blastoderm)として一極に集まっている(図2-1)。通常は体外での受精の後にこの胚盤部分で細胞分裂(卵割)が起きて、その結果多数の未分化な細胞からできた胞胚期(blastula)となる。この後に、大規模な細胞移動が起こり、嚢胚(gastrula)が形成される。これまでの研究によると、嚢胚期には細胞の分化はすでに始まっており、細胞が将来どの組織に分化するかの運命もある程度決定されている。魚類胚の初期発生の特徴としては、将来胚子の体をつくる細胞が胞胚から嚢胚期にかけてばらばらな細胞として動きまわった後に、胚体ができる場所に集まって胚軸をつくることであり、細胞同士の結合を保ったままの細胞層の変形や移動が形態形成運動の大きな部分を占める他の脊椎動物の初期発生と比較して、少なくとも見かけ上は異なっているようにみえる。

魚類胚の初期発生

中辻憲夫著「発生工学のすすめ」(羊土社)より引用

両生類–初期発生研究のベテラン

両生類の仲間は、イモリやサンショウウオなどの有尾類と、カエルなどの無尾類に大きく分かれる。両グループの間には発生過程のうえでかなり異なった部分がある。現在、もっとも広く発生生物学の研究に使われている両生類は、アフリカツメガエルゼノパス:Xenopus)である。なぜこのカエルが使われるかというと、ほとんどの両生類は動きのある生き餌のみを食べるので飼育には多くの手間が必要であるが、ゼノパスは食用のウシ肝臓の断片やマス養殖用の乾燥餌でも食べるので、長期飼育が飛躍的に容易であることがひとつの理由である。さらに、性腺刺激ホルモンを雌と雄に注射することにより、交尾と産卵を季節を問わず誘導できるので、1年中必要なときに受精卵を多数得ることが可能であることが重要である。このように極めて実験に適した両生類であるので、世界中で共通な実験材料となっている。

両生類の受精卵は細胞質内に多数の卵黄顆粒を含み、直径1mm以上の大形の細胞である(図2-2)。最初に規則正しい卵割(cleavage)を繰り返して、多数の細胞からできた、内部に割腔(blastocoel)を持つ胞胚となる。その後に大規模な細胞移動(gastrulation)が起きて、表面細胞層の一部が内部に陥入して嚢胚ができる。やがてこの嚢胚中で神経板(neural plate)の分化が誘導されて、脳や脊髄をつくる中枢神経系の原基ができる。ゼノパス胚の場合はこれらの初期発生過程は極めて急速に進行して、1日間で受精卵から基本的な体の構造ができ上がった尾芽期(tail bud stage)に到達する。

カエル胚の初期発生

中辻憲夫著「発生工学のすすめ」(羊土社)より引用

鳥類–体内で受精し、体外で胚発生が進む

鳥類のなかで発生生物学や発生工学の研究に使われているのは、ニワトリウズラである。ニワトリについては世界各国で飼育されている白色レグホンや他の品種が実験に使われている。ウズラについては、改良されたものが現在世界中でJapanese quail(日本ウズラ)と呼ばれて実験材料として使われている。ウズラはニワトリに比べて成鳥が小さいにも関わらず、胚の大きさはほとんど変わらないので、実験材料として使用するのに有利である。また後から紹介するように、ニワトリとウズラの胚間での組織や細胞の移植を行う場合に、両者の細胞を組織学的に識別できることが活用されて、これまでにさまざまな方向の研究に役立ってきた。

ニワトリやウズラでは、まだ母鳥が卵を生み落とす以前の体内で受精が起こり、卵割が始まる(図2-3)。大きな卵黄の一極に存在する胚盤の部分での細胞分裂は、やがて胚盤葉上層(epiblast)と卵黄側の胚盤葉下層(hypoblast)の2細胞層を形成する。このうち、胚本体をつくるのは上層細胞であり、この時期ではまだ未分化な状態の細胞であると考えられている。産卵された後、胚軸の正中線となる部分にヘンゼン結節(Hensen's node)と原条(primitive streak)が出現して、ここから中葉細胞(mesoblast)が2細胞層の間隙に落ち込み移動して中胚葉層を形成する。これは後に体節などの中胚葉組織をつくる。上層からは神経板が形成されてやがて神経管(neural tube)となり、中枢神経系の原基ができる。これらの胚発生は母鳥や孵卵器によって温められた卵殻中で進行して、やがて発育したヒヨコが卵殻を破って孵化することになる。

鳥類胚の初期発生

中辻憲夫著「発生工学のすすめ」(羊土社)より引用

哺乳類の発生過程を探る

扁平な胚盤を持つヒト

ヒトの胚子はもちろん実験目的には使用できないが、ヒト胚の胚盤部分は比較的扁平なので、筒状になったマウス胚の場合に比べてニワトリなどの他の動物胚との比較が容易であり、その発生過程をまず説明する。ヒト胚の場合(図2-4)は発生1週目は受精卵が細胞分裂(卵割)を行って、3日目に桑実胚(morula)になり5日目には内部細胞塊(inner cell mass:ICM)を持った胚盤胞(blastocyst)に発生する。その後2週目に子宮壁に着床する。この時期には胚盤の部分は2つの細胞層からできている。第3週に入ると原条(primitive streak)が出現して中葉細胞(mesoblast)が2層の間隙に入って移動し、胚盤は2層から3層へと変化する。中葉細胞は後に体節などの中胚葉性組織に加えて胎児の内胚葉組織を形成し、外胚葉層からは神経摺(neural fold)が形成されて神経管をつくり、中枢神経系の原基ができ上がる。

ヒト胚の初期発生

中辻憲夫著「発生工学のすすめ」(羊土社)より引用。

マウスは実験動物の主役!

発生工学分野の研究によく使われる哺乳動物は、マウスやラットなどの比較的サイズが小さく飼育しやすい小型哺乳類である。ついで、ウサギやモルモットなどの実験動物も使われるが、さらに応用をめざした研究には中型や大型家畜哺乳動物が使われる。つまり、ヒツジ、ヤギ、ブタ、ウシなどである。しかし、なんといっても広く使われているのがマウスである。

その理由としては、これまで長年の実験動物としての使用、改良と研究の結果、多くの近交系(純系)マウスの系統(inbred strain)がつくられて遺伝学的に均一な性質を持つ(ヒトの場合では一卵性双生児の関係にあたる)実験材料として用いることが可能なことである。それと同時に、これまでにいろいろな突然変異を持つ系統も確立されており、胚発生で特有の異常を起こす系統や、ヒトの病気に似た症状を示すモデル系統も数多く存在する。また、ホルモン投与による多排卵(過排卵)処理(superovulation))によって通常以上の数の卵子を得る方法や、受精卵を体外で一定期間生かせておくための培養液組成などの培養方法、さらには培養した初期胚を擬妊娠状態(pseudopregnancy)にした雌マウスの卵管や子宮に移植して発生を継続させて、仔マウスを出産させる胚移植技術などの方法が改良されて確立しているからである。

中辻憲夫著「発生工学のすすめ」(羊土社)より引用

円筒形をしたマウス胚の発生過

図2-5にマウス胚の発生過程を示した。マウスの受精卵は、直径約80ミクロンの大きさで、2細胞期から、4細胞期、8細胞期と分裂を繰り返して、16細胞期になったときに細胞間の接着が強まるコンパクション(compaction)と呼ばれる現象を起こして、桑実胚になる。この1日後には胚内部に割腔と呼ばれる空間ができて胚盤胞になる。このときの胚盤胞は外側の栄養外胚葉(trophectoderm)層と内部細胞塊からできている。これらの胚盤胞はやがて子宮壁に接着後、ひだのなかに入り込んで着床(implantation)する。この間に内部細胞塊の割腔に面した表面の細胞は原始内胚葉(primitive endoderm)細胞に分化し、やがて一部の細胞は胚本体から離れた部分の栄養外胚葉層の内側へ遊走しながら移動して、遠位内胚葉(parietal endoderm)細胞となり、細胞外マトリックスを分泌してライヘルト膜(Reichert's membrane)をつくる。一方、胚体部分の近くの原始内胚葉細胞は近位内胚葉(visceral endoderm)と呼ばれる細胞層をつくる。これらはすべて胎仔本体を保護して栄養物や老廃物を母体との間で交換供給するための支持組織である。また、将来胎仔本体をつくるべき内部細胞塊の細胞は増殖して、原始外胚葉(primitive ectoderm)や胚体外胚葉(embryonic ectoderm)または胚盤葉上層(epiblast)と呼ばれる細胞層をつくる。この4~5日目に着床した直後の時期の胚は、全体として円筒形に成長する(ヒト胚の場合はもっと扁平に近い)ので、5~7日目の胚は卵筒胚(egg cylinder)と呼ばれる。卵筒胚では円筒の付根側半分は胎盤をつくる胚体外組織(extraembryonic tissue)であり、胎仔の体をつくるのは円筒の先端部分である。このように円筒形になった理由としては、マウスのように、一腹に10匹以上の胎仔が成長しなければならない場合は、子宮内で場所を節約する必要があるなどが考えられる。

この後、6~7日目には胚盤葉上層に原条と呼ばれる溝が現れ、この部分で上層の細胞が間充織細胞様の形態に変化して、上層と近位内胚葉層の間の空隙に落ち込んで、原条から左右方向および前方向に遊走移動していき、中胚葉(mesoderm)または中葉細胞(mesoblast)層をつくる。最近の研究によると、これらの中胚葉と呼ばれてきた細胞層のなかには胎仔本体の内胚葉(definitive endoderm)をつくる細胞が含まれており、近位内胚葉細胞層に入り込んで置き換わることが知られている。したがって、原始外胚葉または胚盤葉上層と呼ばれる細胞層は外胚葉だけでなく、胎仔の中胚葉と内胚葉を含むすべての組織をつくることになる。中胚葉層は後に体節や側板などの組織をつくる。一方、上層に留まった外胚葉には頭摺(head fold)を前端とする神経摺が形成されて、やがて左右から巻き上がって背側で融合して神経管となり、中枢神経系の原基ができ上がる。このとき最も背側の部分は神経冠(neural crest)細胞となっていろいろな部分に移動し、末梢神経系細胞や色素細胞などの多くの種類の細胞に分化する。また、胎仔の内胚葉層は前腸(foregut)、後腸((hindgut)などの組織をつくる。

マウス胚の初期発生

以上述べた初期発生過程における細胞系譜を図2-6に示す。初期胚のなかに存在して、多分化能を持つ未分化幹細胞と呼べる細胞は、桑実胚の細胞から内部細胞塊の細胞につながり、胚盤葉上層の段階までは存在するが、やがて各胚葉に分化していくことになる。次の世代へ遺伝子を伝達する役目を担う生殖系列の細胞は、上層細胞が各胚葉に分化するときに、原条から陥入する中葉細胞のなかにまぎれて、胚体後部の胚体外中胚葉(extraembryonic mesoderm)のなかの特定の部位に、始原生殖細胞として出現することになると考えられている。

マウス胚発生での細胞系譜

中辻憲夫著「発生工学のすすめ」(羊土社)より引用

注目すべき胚幹細胞株の特徴

無限に増殖し続ける不死の細胞:胚幹細胞株

マウス胚幹細胞株(胚性幹細胞株とも呼ばれ、英語ではembryonic stem cell lineまたはembryo-derived stem cell lineで、ES細胞株/ES cell lineと略称される)は、マウスの胚盤胞の内部に存在する未分化細胞である内部細胞塊の細胞を培養に移し、頻繁に細胞塊の解離と継代を繰り返しながら、培養皿のなかで未分化状態を保ったままで増殖し続けるように樹立された細胞株である(図4-1)。この細胞は染色体異常を起こさない正常核型を維持しながらほぼ無制限に増殖と継代を繰り返すことが可能であり、一種の不死性を獲得した(immortal)細胞であるともいえるが、内部細胞塊の細胞と同じように、あらゆる種類の細胞に分化することのできる全能性(totipotency)または多分化能(pluripotency)を持っている。たとえば、培養下で多種類の細胞への分化を誘導することも可能である。また同系統のマウス皮下などに移植すると、さまざまな組織が混ざり合った奇形腫(teratoma)をつくる。さらに、これらの細胞を長期間培養した後でも、胚盤胞のなかに注入すると、宿主胚の内部細胞塊の細胞と混ざり合ってマウス胚と胎仔の形成に寄与してキメラマウス(chimaeric mouse)をつくる能力がある(図4-1)。

胚幹細胞株

中辻憲夫著「発生工学のすすめ」(羊土社)より引用

胚幹細胞由来のマウス個体をつくる

キメラマウスのなかで胚幹細胞が将来、卵や精子をつくる始原生殖細胞(primordial germ cell)の分化に寄与した場合には、生殖系列キメラ(germ line chimaera)ができることになり、このキメラマウスを交配することによって、胚幹細胞由来のマウス個体を得ることができる。つまり、もしXY染色体を持つ雄の胚幹細胞株からのキメラの場合は、この細胞から精子がつくられるので、培養された1個の胚幹細胞をいわば父親とする仔マウスが誕生することになる。ただし、胚幹細胞株のなかでも生殖系列キメラをつくる能力が高いものと低いものがあり、培養継代の条件が最適でないときにはすぐに生殖系列キメラをつくらなくなる。この理由はまだ明らかではないが、生殖細胞の分化の過程のある段階(減数分裂時の可能性が高い)には、少しでも染色体異常を起こしたような正常でない細胞を排除するしくみが働いており、染色体異常を次の世代へ伝えないようにしていると考えられる。一方、細胞株を長期間継代維持する場合によく起こることとして、染色体の変異などによって少しでも分裂増殖速度を早めた細胞クローンが他の細胞を圧倒して細胞株を乗っ取ってしまうことがあるので、胚幹細胞株を長期間培養する場合は染色体異常が起こりやすいと思われる。

さて、生殖系列キメラをつくる能力を持つ胚幹細胞株がなぜ注目されるかというと、これらの細胞を培養中に遺伝子導入などのいろいろな実験操作を加えて、しかも目的に合うように遺伝子が組み込まれた細胞クローンを選別した後に、キメラマウスをつくり、生殖系列キメラを交配することによって、選別した胚幹細胞由来のマウス個体をつくることが可能なことである。このような目的に使えることは、胚幹細胞株に極めて特有な性質であるので、遺伝子ターゲティングをはじめとして、いろいろな方面からの発生工学的研究に現在広く利用されている。

中辻憲夫著「発生工学のすすめ」(羊土社)より引用

胚幹細胞株の先輩株:胚性癌腫細胞株

初期胚のなかに存在する多分化能を持つ未分化幹細胞の性質を保持した細胞株が得られれば、細胞分化や発生過程の研究にとって非常に重要な実験材料となるであろうという考えは、マウス胚幹細胞株の樹立が1981年に初めて報告される以前から存在していた。このような細胞株として最初に使われるようになったのが、胚性癌腫細胞株(embryonal carcinoma cell line : EC cell line)である。まず、いくつかのマウス系統では精巣や卵巣に悪性奇形腫(teratocarcinoma)が自然発生することが見つかり、この腫瘍細胞を培養することによって、いろいろな種類の細胞に分化するもとになる幹細胞の細胞株が樹立された。その後、マウス初期胚を精巣などに移植することにより、マウスのいろいろな系統で奇形腫の形成を誘導できることが明らかになった。そして、これらの胚性癌腫から多分化能を持つ幹細胞の細胞株が多数樹立された。初期胚の移植による奇形腫の形成は、卵筒胚までの時期の初期胚を使った場合のみに可能であった。このことは、初期胚中の未分化幹細胞としての性質を持つ細胞が、卵筒胚中の胚盤葉上層まで存在するという考えとうまく一致する。

ところで、これらの胚性癌腫細胞株はいったん悪性奇形腫としての段階を通過した後に樹立された細胞株であるので、どれくらいの多分化能を持つかなどの性質はおのおのの細胞株によって異なる。たとえば、分化能がかなり限定された細胞株としてはF9やP19のような細胞株がある。また、胚性癌腫細胞株のなかで比較的多分化能を保持している細胞としては、OTT6050やMETT-1、STT-3などがある。このような細胞株にはキメラ形成能を持つものがあるが、生殖系列キメラをつくる能力を維持した細胞株はほとんど存在しないので、これらに代わる細胞株として登場したのが、初期胚から直接樹立された胚幹細胞株であった。

一方、比較的分化能の低い胚性癌腫細胞はフィーダー細胞なしで培養維持しても幹細胞としての性質を保持させることができる。そして、これらの細胞にレチノイン酸などの分化誘導物質を与えると細胞分化を誘導することができる。この場合、多分化能の低いことがかえって分化方向と条件を制御しやすいことにつながっており、たとえばF9細胞やP19細胞では極めてはっきりとした条件下で一定の方向への細胞分化を誘導することができるので、細胞分化の実験材料として広く使われている。

中辻憲夫著「発生工学のすすめ」(羊土社)より引用

幹細胞株の樹立と培養

細胞株の樹立・維持には経験と注意力が必要!

胚性癌腫細胞株と違って、胚幹細胞株はマウスの初期胚の細胞を培養条件に直接移して樹立された細胞株であるので、初期胚中に存在する未分化幹細胞の性質をよく保存しており、またおのおのの細胞株の間で性質もよく似ている。細胞株樹立の際、通常は胚盤胞の内部細胞塊の細胞を使って培養を開始する。桑実胚の解離細胞や着床を遅らせた胚盤胞を使う場合も報告されている。しかしいずれの場合でも、通常の細胞培養方法によって培養を行うと、これらの胚細胞はすぐに上皮様細胞などに分化してしまう(おそらく原始内胚葉の細胞系譜に入ってしまう)。そこで、STO細胞株やマウス胎仔から調製した初代培養細胞などの繊維芽細胞を使ったフィーダー細胞層の上で、適切な細胞密度と培養液などの条件を維持するための培養液の交換と細胞の解離と継代を頻繁に行うことによって初めて、未分化幹細胞の性質を保持した細胞株を維持することができる(図4-2、表4-1) 。

胚幹細胞株の樹立

表4-1 胚幹細胞培養用培地(ES Medium)の組成

・100ml DMEM (Dulbecco's modified Eagle's medium)
・4.5g グルコース/I
・0.5ml NEAA (non-essential amino acid:Gibco)
・1ml ヌクレオシド溶液
・0.1ml 2-メルカプトエタノール溶液 (final 10-4M)

ヌクレオシド溶液:アデノシン、グアノシン、シチジン、ウリジンそれぞれ3mM、チミジン1mMの水溶液。通常は20%になるようにウシ胎児血清を加えて使用する。血清はロットによって効果が異なるので、あらかじめロットチェックを行う必要がある。

最初に胚幹細胞株の樹立が報告されて以来、樹立方法や維持方法の改良が加えられてきた。最近用いられている樹立法については、ロバートソン(E.J.Robertson)の総説(参考図書2)や、われわれの研究室からの手引き(参考文献4-1)を参考にしていただきたい。未だに胚細胞がどうして未分化状態のままで増殖を続けるようになるかの機構については不明な点が多く、したがって細胞株の樹立についても経験に頼る部分が大きいので、どの研究室が試みても必ず成功するとはいえないのが現状である。いったん樹立された胚幹細胞株を維持し使用する方法についても同じ文献を参考にできるが、こちらの方は樹立に比べれば比較的容易である。しかしながら、遺伝子導入や選別の過程を経た後にも生殖系列キメラをつくる能力を維持させるためには、最良の方法で注意深く胚幹細胞を取り扱い、培養維持する必要があるので、通常の株細胞を扱う以上の培養方法の習熟が必要であることに変わりはない。

未分化幹細胞の分化を抑制する因子LIF(leukaemia inhibitory factor)が発見されており、未分化状態を維持させる分子機構の解明も今後進展すると思われる。ところで、このLIFは胚幹細胞では発現しておらず、マウス初期胚でも内部細胞塊などの未分化幹細胞よりもまわりの胚体外組織の細胞が生産しているらしい。しかしながら、このLIF遺伝子を遺伝子ターゲティングで壊した欠損マウスをつくっても初期胚の発生は正常に進行することが示されたので、実際にLIFがどんな働きを初期胚発生で行っているかはまだはっきりしない。

胚幹細胞株の樹立が可能な理由

ところで、本来発生過程のなかで次々と性質を変化させていくはずの胚細胞から、このような幹細胞の細胞株を樹立できる理由としては、哺乳類初期胚が持つ大きな調整能が関係している可能性がある。つまり、各種の操作によって胚盤胞の内部細胞塊の細胞数や、卵筒胚の胚盤葉上層の細胞数を大きく減少させても、胚はその後の発生過程で細胞増殖を余分に行うことにより、細胞数を調整して正常な胚発生を行う能力を持っている。この調整能をどんどん引き出すことによって、胚幹細胞株の樹立が可能になったとも考えられる。

多分化能の高い胚幹細胞では、細胞分化を起こさせることは容易だが、その条件と分化方向を制御することは難しい。たとえば培養液の交換の遅れや細胞密度の変化などによっても細胞分化が起こってしまう。また細胞凝集塊をつくることにより、胚盤胞に似た構造(embryoid body)が形成されて、造血系組織や心筋細胞の分化も見られる。これは、卵黄嚢(yolk sac)での血島(blood island)や心臓の発生が胚発生の早期に起こることと対応している。このような分化能を利用して、胚幹細胞の凝集塊培養は造血系細胞の分化過程の研究に使われている。

中辻憲夫著「発生工学のすすめ」(羊土社)より引用

2つの異なる遺伝子セットを持つ個体:キメラマウス

キメラと雑種は全く違う概念である

キメラという言葉はもともとギリシャ神話のなかに出てくる怪獣で、体全体がいくつかの種類の動物の体の一部分を融合させたものからできているものの名前である。たとえば頭がライオン、しっぽが蛇といった具合である。本来通常の生物個体は、その体をつくっているすべての細胞は全く同じ遺伝子セットを核内に持っている。

これは、1個の細胞である受精卵が細胞分裂と細胞分化を繰り返してでき上がったのが生物個体の体であるため、当然のことながらそれらの細胞は同じ染色体と遺伝子を持つクローンであることになる。これに反して、たとえば接木をした植物は体の部分によって違った遺伝子セットを持つ細胞が一緒になった個体であるため、この場合はキメラであるといえる(図4-3)。動物の場合には、もしラットの骨髄細胞を移植されたヌードマウスが存在すれば、マウスとラットの(造血系組織の)キメラということになる。同じ動物種のなかでも異なった近交系統のマウスの細胞を持つマウスはキメラであるし、近交系ではない動物の場合は、2個体の細胞が共存する動物はすでにキメラ動物である。念のため付け加えておくと、ごく初歩的な間違いとして雑種がある。雑種というのは、受精卵の核自体が2つの系統や動物種由来の染色体を持つものなので、したがってこの生物個体のすべての細胞の核内に2系統の遺伝子が存在はしているが、すべての細胞は同じ遺伝子セットを持っているため、キメラとは明確に異なる概念である。

キメラ

中辻憲夫著「発生工学のすすめ」(羊土社)より引用

集合キメラと注入キメラ

脊椎動物でキメラをつくる場合、胚発生がかなり進行した後に肢芽などの組織を移植してつくるキメラ胚は鳥類などで研究に活用されているが、キメラと呼ばれる多くの場合は、初期胚の段階で胚細胞の移植、または2つの初期胚を融合(集合)させることによってつくられている。哺乳類胚の場合は、桑実胚期までの初期胚をくっつけて集合させる場合(集合キメラ:aggregation chimaera)と、胚盤胞の割腔内への細胞注入によってつくる場合(注入キメラ:injection chimaera)がある。これらのうち、胚幹細胞によってキメラを作製するためには胚盤胞への注入法が広く行われており、一部には8細胞期胚の透明帯内への注入などにより集合キメラをつくることも行われている。

これらの顕微操作には、マイクロマニピュレーターが使われる。以前に説明した受精卵の前核中へのDNA溶液の顕微注入の場合と同じく、片方の保持用ピペットで胚盤胞を固定する。もう一方のマニピュレーターに取りつけたピペットにあらかじめ胚幹細胞を吸い込んでおき、このピペットを割腔内へ突き入れて細胞を押し出す((図4-4)。このためのピペットは、細胞を吸い込めるだけの内径を持つと同時に胚盤胞へ突き立てることができるように、先端を鋭角に尖らせたものをマイクロフォージ(microforge)や研摩器によって工作して用意する。

注入法によるキメラ胚作製

ところで多分化能を持つ胚性癌腫細胞や胚幹細胞が、どれだけマウス初期胚中の幹細胞に近い性質を持っているかを調べるための最適の方法は、それらの細胞を胚盤胞内に注入したときに、キメラ胚やキメラマウスをつくることができるかどうか、キメラ寄与率は大きいかどうか、そして最後に生殖系列キメラをつくれるかどうかで検定することである。特に重要なのは生殖系列キメラ形成能である。つまりこの細胞株を使って、胚幹細胞を経由したマウス個体への遺伝子導入や遺伝子ターゲティングなどができるか否かを決定する性質である。

これまで多くの研究室で行われた実験の結果わかったことは、胚幹細胞株が由来するマウス系統と、注入キメラを作製する際の宿主胚盤胞のマウス系統の組み合わせが、生殖系列キメラ作製効率に大きく関係しているということである。広く使われている129系統マウス由来の胚幹細胞株に関しては、C57BL/6系統のマウス胚盤胞を宿主胚として使うのが最適と考えられている。また、われわれの研究室ではC57BL/6由来の胚幹細胞株を樹立して実験に使用しているが、この場合の宿主胚盤胞としてはBalb/c系統のものがよいようである。

中辻憲夫著「発生工学のすすめ」(羊土社)より引用

遺伝子ターゲティングによるマウスの遺伝子改変

夢の実験法–遺伝子ターゲティングの概略

これまで胚幹細胞やキメラ作製、相同遺伝子組換えについて説明してきたが、これらを準備段階として、いよいよ発生工学的手法のなかでも現在最も注目されている遺伝子ターゲティングの全体像を説明する。これはマウスのゲノム中の内在遺伝子の1つを標的遺伝子として選んで、これを人為的にデザインした形の遺伝子に置き換えるもので、動物個体の遺伝子を思うままに改変できるという夢のような方法である。

実際の実験(図4-6)は、まず標的とする遺伝子のジェノミッククローン(必ずしも遺伝子の全長を必要としない)を入手して、その遺伝子の構造や胚幹細胞での発現状態から、4種類の選別方法(図4-5)のうちどれを採用するかを決定して、相同組換えのための遺伝子ベクターを構築する。この遺伝子ベクターを胚幹細胞に導入して、得られた導入細胞のコロニーのなかから相同組換えを起こしたコロニーを選別する。この胚幹細胞を使ってキメラ胚を作製して、仮親の雌マウスの子宮に移植して、キメラマウスを得る。次に、これらのキメラマウスを交配して生まれた仔マウスを調べることにより、生殖系列キメラマウスかどうかを判別する。この段階での胚幹細胞由来の仔マウスは、常染色体上の標的遺伝子に関しては、改変された遺伝子を片方に持つへテロ接合体である。さらにこれらのヘテロ個体同士を交配すると、改変された遺伝子のホモ接合体が生まれるはずである。ただし、対象とする遺伝子の改変が発生異常などを起こす場合には生まれてこないので、その場合は発生異常を起こした胚を調べる必要がある。なお遺伝子ターゲティング実験についての詳しい解説は、参考図書4ならびに参考文献4-2、3を参照するとよい。

相同遺伝子組換えのためのベクター構築方法

遺伝子ターゲティングの全体図

中辻憲夫著「発生工学のすすめ」(羊土社)より引用

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