遺伝学とは

DNA人類進化学 〜 1.遺伝情報から進化を探る

ミトコンドリアDNA

DNAは核の染色体以外にも存在する。細胞質にあるミトコンドリアというエネルギー産生や呼吸代謝の役目をもつ特殊な小器官の中にも小さなDNAが存在し、これをミトコンドリアDNAと呼んでいる。ミトコンドリアの機能のかなりの部分は、核DNAの遺伝情報に司られているが、このミトコンドリアDNAにも、二個のリボソームRNA(rRNA=タンパク質生産工場であるリボソームを形作るRNA)と、二二個の転移RNA(tRNA=タンパク質の材料であるアミノ酸を運ぶRNA)、そしてわずか一三個のタンパク質を作る情報となる遺伝子がある(図1)。

ミトコンドリアDNAの遺伝子の配置

ヒトのミトコンドリアDNAは、あらゆる生物種を通じてその全塩基配列が解読された最初の例であるが、その結果、ミトコンドリアDNAは一万六五六九塩基で構成された非常にコンパクトな環状のDNAで、前述のように全部で三七個の遺伝子が存在することが明らかとなった。図1に示すように、tRNAの遺伝子はrRNAやタンパク質の遺伝子を区切るような形で、一個あるいは数個かたまって存在している。ミトコンドリアDNAの全体の約九三%は遺伝子を指定している領域で、むだな塩基配列はわずか七%しかなく、このことが核DNAとの大きな違いとなっている。

  このミトコンドリアDNAは、進化の研究をするのに有効ないくつかの特徴をもっている。第一の特徴として、ミトコンドリアDNAは核DNAに比べて塩基置換の起こる速度が五倍から一〇倍速いことがあげられる。これは生物進化を研究する上で強力な武器となる。

  第4章で詳しく解説するが、ヒトにもっとも近縁な動物はチンパンジーである。霊長類の進化の過程で、共通の祖先からヒトの系列とチンパンジーの系列とに分岐してきたが、いま、ミトコンドリアDNAの塩基配列をヒトとチンパンジーで比較すると、約九%ほど異なっていることが知られている。ところが、ミトコンドリアでなく核のDNAにおいて、二種間の同じ遺伝子配列を調べると、わずか一%しか相違がない。共通の祖先から分岐した後の時間はミトコンドリアも核も同じであるから、その間に蓄積された塩基置換数はミトコンドリアDNAのほうが核DNAより九倍多いことになる。核DNAの塩基置換速度は遺伝子によってバラツキがあるので、それを考慮すると、実際にはミトコンドリアDNAでは核DNAの五倍から一〇倍の速さで塩基置換が起こっている。

  この塩基置換速度が速いという特徴から、比較的短い進化的時間の中で生じたDNAの変異を効率よく測ることができるのである。

  第二の特徴は、母性遺伝である。ミトコンドリアDNAは、母親のものだけが子供に伝わり、父親のミトコンドリアDNAは次世代にはまったく関与しないという、核DNAとは異なった遺伝様式をとるのである。このことは父系および母系の入りまじった核DNAとちがい、系統関係を復元するのにミトコンドリアDNAがきわめて適していることを示している。例えば、われわれ一人一人の一〇世代前の祖先は210、すなわち一〇二四人存在するから、われわれのもつ核のDNAは祖先の染色体の全部で四万七一〇四本(四六本×一〇二四人)のうちの四六本に由来するものをもっている。したがって、各染色体が一〇世代前のどの祖先に由来するのかを特定することはほぼ不可能である。一方、ミトコンドリアDNAでは、確実に一〇世代前の一人の母系の祖先の持っていたミトコンドリアDNAに行き着くことができる。

  第三の特徴はミトコンドリアDNAの数の多さである。一個の細胞にミトコンドリアは数百個含まれており、ミトコンドリア一個にミトコンドリアDNAが五、六個あるため、細胞当たりでは一〇〇〇個以上も存在することになる。そのため、組織から大量に収集することができ、分析しやすくなっている。ヒトでは、後で述べるように胎盤をすりつぶし、一個一個の細胞にしてミトコンドリアDNAを取り出し、さらにいろいろな精製作業を経て単一のきれいなDNA産物として精製することができる。

宝来聰著「DNA人類進化学」(岩波科学ライブラリー52)より引用