第1回 太田朋子 名誉教授

遺伝学の先達

「遺伝学の先達」第1回目は、遺伝学研究所名誉教授の太田朋子先生。集団遺伝学の研究の第一人者だ。故木村資生先生の共同研究者として、分子進化の中立説を発展させ、「ほぼ中立説」を確立した。日本人女性初のアメリカ芸術科学アカデミー外国人名誉会員に選ばれ、国内では第1回猿橋賞や日本学士院賞を受賞するなど業績は世界中で高く評価されている。太田先生は、1969年(昭和44年)から1996年(平成9年)に定年退官されるまで、27年間、遺伝学研究所に在籍された。

集団遺伝学の研究を振り返って

太田朋子先生1

白髪の太田先生、眼鏡越しの表情はとても物静かだった。研究の話では、時おり鉛筆で図示しながら熱心に説明してくれた。集団遺伝学は「とても理論的な学問」と太田先生。「生物集団の多様性をもたらす原理を探るのが集団遺伝学です」。太田先生は、突然変異の遺伝子の進化と変異について統計学的な手法を用いて解析し理論化してきたという。地球上に多様な生物が存在するのは、生物が進化した結果だ。集団遺伝学とは、数量的なモデルから進化の過程を推論し、生物の進化を研究する学問である。進化論では、ダーウィンの「自然選択説」が支持されてきた。生存に有利な突然変異は子孫を残しやすいので維持されるというものである。1968年に木村資生が「分子進化の中立説」を発表すると、革新的な考えとして注目された。生物の生存に有利でも不利でもない中立的な突然変異が進化に大切な役割を果たしてきたという説だ。

「1960年代後半からは生化学のデータと集団遺伝学の理論を結びつけるという動きが出て、その流れをみていました。そして、たんぱく質の進化にみられる機能的な制約から、弱い効果の突然変異に注目しました。データと集団遺伝学の理論をくみあわせて、ほぼ中立説ができあがりました」。ほぼ中立説とは、有害でも完全に中立でもないほぼ中立な突然変異が進化の過程で重要であるというものである。今世紀にゲノム生物学はめざましく進歩し、ほぼ中立説を裏付けるデータが次々と発表されている。進化論では、自然選択説に根強い支持があり、中立説やほぼ中立説に目を向けてもらうのには苦労したという。「でも遺伝研では、多くの研究者の理解もあり、よい環境にめぐまれ、ここで研究をやっていてよかったと思います」。

遺伝研での生活

太田朋子先生2

太田先生が遺伝研にはじめてきたのは、1967年の春。学術振興会の研究員としてだった。アメリカで集団遺伝学を学んだ太田先生は、帰国後、「木村先生のもとで研究をしたい」と、遺伝研の門をたたいた。「はじめはとりあえず置いてもらった感じ。アメリカでPh.Dをとった私は自信がありましたが、その自信は木村先生のもとで瞬く間に崩れました」。2年間後、実力も認められ正式な研究員になった。「木村先生はとても怖い先生と有名でしたが、私にとってはそんなことはありません。木村先生はとてもストレートな方で、こちらも思った通りの事が話せます。その思った通りに言える関係が、研究を進めるのによかったようです。けんかとまではいきませんが、毎日議論をしました。その議論を通してたくさんのことを教えてもらいました」。

数々の功績を残した太田先生は、女性科学者に送られる猿橋賞の最初の受賞者である。女性研究者として特に苦労したことはないという。「子供が病気をした時はつらかったですが、それ以外は自分で研究の時間を調整できたので問題はありませんでした」。かえって家事が気分転換になったと話す。

現在最も関心があるのは、「遺伝子の発現調節」だそう。今も、毎日遺伝研にやってきて研究を続けている。「論文を読んでいると、ほぼ中立説に関連した研究の展開があります。それを見つけるのが楽しみ」と先生は微笑んだ。先生の頭の中は、研究のことでいっぱいのようだ。趣味は、SFや小説などを読むこと。「散歩をしたり、音楽をきいたりもしますよ。趣味というほどのことではありませんが…」と、控えめな言葉だった。

研究者を目指す若者たちへのメッセージ

遺伝研60周年を記念して、後輩たちへ送るメッセージをいただいた。
「遺伝学は今、とてもおもしろい時期です。未解決の興味深い問題とそれを解決する手段がたくさんあります。問題の解決には、直感がとても重要。自分の感性を大事にして、自信をもって研究や仕事を進めてください」

編集後記: 研究生活は「ただ、運がよかっただけ」、そう謙虚に繰り返す太田先生。淡々と語る先生の言葉には途切れることのない研究への情熱であふれていた。「先生のお話をきけてよかった」となぜだか熱いものがこみあげる。今日はすばらしいお話をありがとうございました。

(文:サイエンスライター 佐藤成美)

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