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第三回:胃の中に住むヘリコバクター・ピロリの話
胃がんの原因菌としてのヘリコバクター・ピロリ
「噛んで含める」という言葉があります。母親が食べやすいように食物を噛んでやわらくし、子どもに与えることです。教育の現場では噛んで含めるように教える、なんていいます。母親の子どもに対する愛情をこめた言葉ですので、教育の場でも使われるのでしょう。ところが、最近は母親が子どもに口移しで食べ物を与えてはいけないと指導されるそうです。胃潰瘍や胃がんの原因となるヘリコバクター・ピロリが子どもに感染する危険があるからです。すっかり悪者になっているヘリコバクター・ピロリについて考えてみましょう。
胃の中は強酸の消化液があり、微生物にとって住みつくにはいい環境とはいえません。それでも胃に存在するらせん状微生物の存在は報告されていたらしいですが、医学会が注目することはありませんでした。オーストラリアのRoyal Perth Hospitalの病理学者であるRobin Warrenは胃がんのバイオプシー検体から炎症部位にらせん状バクテリアが存在することを観察していました。当時若きレジデントだったBarry Marshallがそれをみて興味を持ちます。ふたりはヘリコバクター・ピロリ(H.ピロリ)の培養に成功し、その性質を研究します。そして、胃潰瘍をおこした患者ではH.ピロリが高率に存在することを明らかにします。H.ピロリは胃炎や胃潰瘍の原因であるという仮説を発表しましたが、学会からは冷たい目でみられただけでした。実際のところH.ピロリの存在だけでは直接的な証拠になりません、そこでマウスやブタで動物実験をおこないましたが、どうもうまくいきません。このあたりは種間での特異性がある感染実験の難しいところです。そこで、MarshallはH.ピロリを飲むという人体実験を試みます。そのような実験に同意してくれるのは他ならぬ自分だけということで、バイアル一杯のH.ピロリを飲み込みます。果たせるかな、1週間後に検査したところ、胃に炎症病変ができ、炎症部位にH.ピロリの存在が確認できました。一連の実験でコッホの原則を満たしたことになります。その後、実験を継続することに彼の妻からの強烈な反対があり、抗生物質を飲んだそうです。そのような経緯でH.ピロリによる胃の炎症が潰瘍の発生と関連し、胃がんの原因ともなることが明らかになりました。この功績で、WarrenとMarshallに2005年ノーベル医学生理学賞が贈られます。今ではH.ピロリと胃がんの関連は疑いもないことで、H.ピロリに対しては積極的な治療が行われます。
さて、どのようにしてH.ピロリは強酸の環境である胃の中で生きていけるのでしょうか。H.ピロリは総タンパクの15%に相当するウレアーゼを有します。ウレアーゼは胃液中に分泌される尿素を加水分解しアンモニアを生じます。そうしてマイクロ環境下(ニッチ)においてアンモニアで胃酸を中和でき、感染を成立させます。らせん状の鞭毛が胃壁にそれこそコークスクリュー状に食い込みます。H.ピロリは常在菌といっていい存在でした。発展途上国では90%の人が感染しています。先進国では10-20%程度です。おそらく何万年も前からヒトに感染していたと推測されています。宿主特異性はあるものの、すべてのほ乳類と鳥類の一部に存在しています。実際に被験者からH.ピロリを採取し塩基配列決定をおこなうと、興味深いことがわかります。人類と長らく共生していたので、人類の移動の歴史と同様にアフリカ集団でH.ピロリの多様性が高く、アジアやヨーロッパでは多様性が低くなっています。人類移動の指標ともなっており、興味ある方は参考文献を読んでください(Falushet al. Science 2003)。乳児期は胃酸の分泌が不完全であるため、感染しやすくなります。ですので、母親からの口移しは感染径路のひとつと考えていいでしょう。
ヘリコバクター・ピロリをめぐるもうひとつの話
ニューヨーク大学のMartin Blasterは異なる視点からH.ピロリの研究をしました。H.ピロリは人類にとって常在菌というべきものであったので、単に病気をおこす病原体ではありえない、と考えました。そうすると、現在のように感染率が低くなったことの方が問題となります、そして近年頻度が高くなった疾患に目をつけました。喘息に代表されるアレルギー疾患です。アレルギー疾患が近年増加したことは、Hygiene(衛生)仮説で説明されます。すなわち、小児期に衛生的な環境で過ごしたためアレルギーをひきおこしたというものです。元来、人類は寄生虫感染などが普通であったのに、現代の清潔な環境で育ったため、免疫担当細胞であるヘルパーT細胞のバランスが崩れたためと説明されます。ヘルパーT細胞にはTh1とTh2があり、Th1は細胞性免疫、Th2は液性免疫に関与しています。生後すぐはTh2優位なのですが、寄生虫感染や細菌感染の経験を経て、Th1とTh2のバランスがとれるようになります。ところが、寄生虫感染などを経験しないと、Th2優位のままとなり、IgE産生などの効果でアレルギーが発生すると考えられています。
Blasterは小児喘息の患者と非罹患者でH.ピロリの感染の有無との関係を一般的なケースコントロールスタディで検討してみました。喘息とH.ピロリ感染には負の相関がありました。すなわち、H.ピロリに感染している人は喘息にかかりにくくなります。H.ピロリがアレルギーにかかりにくくしていたということで、Hygiene仮説に合う結果でした。この現象は小児期(15歳まで)のみで、成人ではみられません。 最近ではH.ピロリはゴキブリのような存在で、見つけたら殺す、という対応がなされます。根絶治療というものです。確かに、胃潰瘍のみならず胃がんのリスクがあるので、理解できます。ただし、小児期においてはH.ピロリがアレルギーを減弱させるので利点の方が大きいと考えていいです。そうしますと、小児期まで感染させておいて、ある時期に根絶治するという方針があってもいいのかもしれません。なお、H.ピロリは胃液の逆流を防ぐらしく、食道がんやバレット食道炎に対しては抑制的に働くそうです。
さいごに
H.ピロリはゴキブリみたいな存在と書きました。多くの人に嫌われているゴキブリですが、なにか悪いことをしているのでしょうか。人類の歴史よりはるかに長い歴史をもつゴキブリです、もしかしたらアレルギーの抑制に寄与していたのかもしれません。人のからだすべての細胞数は60兆個といわれます。ひとりの人に住みついている微生物の細胞数は100兆個にのぼるそうです。多くは共生している常在菌です。H.ピロリの例をみると、もともと人類と共生していました。胃がんの原因となるリスクがあっても、寿命が50歳いかない時代には大して問題にはなりません。共生関係も環境によって変化するのだと感じます。
参考文献
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Warren JR, Marshall B
Unidentified curved bacilli on gastric epithelium in active
chronic gastritis.
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Marshall BJ, Armstrong JA, McGechie DB, Glancy R
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Med J Aust 142, 436-439, 1985
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Falush D, Wirth T, Linz B, Pritchard JK, Stephens M et al.
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migrations in Helicobacter pylori populations.
Science 299, 1582-1585, 2003
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Reibman J, Marmor M, Filner J, Fernandez-Beros ME, Roger L, Perez-Perez
GI, Blaser MJ
Asthma Is Inversely Associated with Helicobacter pylori Status in
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Chen Y, Blaser MJ
Helicobacter pylori colonization is inversely associated with
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J Infect Dis 198, 553-560, 2008
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Atherton JC, Blaser MJ
Coadaptation of Helicobacter pylori and humans:
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J Clin Invest 119, 2475-2487, 2009
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